ボロボロ!わたしの恋愛遍歴

 ご存知のとおり、わたしはひとと交際の契約まで至ったことがない。しかし、だいたい1年に1遍くらいのペースでいいところまではいくのである。なぜわたしはお付き合いに発展しないのか、それを明らかにしたい。

 

その1、中学生までの異性関係

 最初に断っておきたいが、わたしは別に異性に完全に避けられるようなタイプではなく、むしろ現代の知的(だと自分では思っている)青年層にあっては、かなり異性との関わりが多いほうである。

 小学校低学年の頃は、同性よりも異性とよく遊んでいたし、そういう性格と趣味の人間だった。高学年になると父親に強制的に野球部に入れられてそのコミュニティで恐喝や脅迫によって強制的にパシリなどをやらされていたが、基本的に、わたしはあまり喧噪を好むタイプではない。

 そこで、小学4年生ごろには下校時に家の近くでわたしの名前を叫ばれることなどもあり、一部女子に好かれていたが、結局恋愛には発展しなかった。

 中学に入ると、今から振り返るとなかなかいいところまで行っていたように思う。わたしの「心をつかみたい」という趣旨のことを漏らしていた女子もいたし、別の快活で身長の低い女子からはよく笑顔で身体的接触を受けていた。しかし、ここでも恋愛には発展しない。多分、わたしの全盛期はこの時期である。というのも、小学校高学年の苦境から脱出し、厳しい父親も折からの世界的不況で晴れてうつ病になり、わたしはインターネットに接続して動画サイトを観たりアニメ鑑賞をしたりと自由を謳歌していたので、学校で友達を作って人とどうこうという人間ではなかった。ここまでは、つまるところ一般的なこのたぐいの若者だったのである。

 

その2,高校で告白を受ける

 普通科高校に入ってもこの気質は抜けず、おどおどとして友達も作らずひたすら小難しい顔で活字の本を読んでいた。授業中や昼休みは机で寝ていたと思う。なぜなら、夜は夜更かししてアニメを観たり、やっと登録できたニコニコ動画にのめりこんでいたからである。また、このころコピペブログの活動も始めていた。

 そうした折、しばらく前からよく喋りかけられていた女子から手紙を手渡されて告白された。いかにもメンヘラ臭そうだと思っていたし、わたしはそんな人間に特有の見透かすような反省的意識の高さは持ち合わせていたので、どうにも乗り気になれなかった。しかし、確かにうれしかったのである。だが、折悪くわたしはインターネットに夢中だった。だから、その手紙に一言「いいえ」と書いて返却した。相手は本気に悲しんでいた。…しかしその後も、廊下で会うと笑顔で手を握られたりなどしていたのだが、わたしはつとめて無表情に図書館に赴いていたように思う。

 

その3,ニート時代にやってくる

 わたしはまたもやこの青年にありがちなことに、不登校になったのであるが、あまりに解放感が強かったのであろうことかそのまま学校をやめニートになってしまった。

 しかしそこはそれ、ニート時代にもわたしは半端に色恋沙汰に片足突っ込んでいた。母親が死に、母親が遺していってとても仲良くしていた黒猫も去ったあと、わたしは神経症に陥ってしまった。そうしていたところ、母親の法事ごとに顔を合わせていたいとこのお姉さんと、『西洋哲学史』の本を集まりの場に持っていったことで話す機会を得(実際は、わたしは話す口実になろうかと計算してその本を持っていったのだ)、そこからわかるとおり、お互い会うたびに気にかけてはいたので、急速に仲良くなった。いとこのお姉さんは大学を卒業したあと司書になるために浪人的な身分だったので、暇があったのである。そうして、わたしはそのいとこのお姉さんに膝の内側をデコピンされるなどの表現を受けることもあったのだが、わたしはどうもここでも過敏な奥手になってしまった。これである。わたしは、いい雰囲気になってそれを自覚した瞬間に「過敏な奥手」が発動してしまうのである。そうして、その後それを克服して積極的アプローチを取り始めたころにはタイミングを逃しているのである。こういうことなのだ。そういえばそのデコピンの時には、わたしとお姉さんは太宰だの芥川だのの話で盛り上がったようなおぼろげな印象がある。

 

その4,高校再入学と、またもやメンヘラ

 21歳で発達障害者や不登校者を集める高校に再入学した。この頃わたしは先の「いとこのお姉さん」が痛手となって完全に恋に凝りていた。その後現在までいろいろと観測してきたが、一生に一度きり、多くのこの種の若者にその手の経験は付き物であるらしく、それを上書きするような経験に出会うまではずっとそれを背負って生きるらしい。何人も見てきて、界隈のその傾向がつかめた。その間にわたしはあんまり苦しくてゲーテの『若きウェルテルの悩み』などをTSUTAYAさんで買って読んでいたが、薬にはならなかったと思う。首を吊る真似事をしていた気がするが。

 そうして、高校再入学だ。だから、わたしは女性には目もくれず友達を作ることに集中した。そうして、半年たたないうちに、体育祭の練習で愚痴を言いつつ北朝鮮だのオウム麻原だのの話題で意気投合し、未だに仲良くしている友達を作ることに成功した。わたしは、このころから、先の体験が効きすぎてプラトニックな同性愛の傾向が強く出るようになってしまった気がする。これは、社会不適合者のすることなので早めに治したい。今はヒモになりたい。

 そんなことを言っていても女性からのアプローチは来るもので、およそわたしの趣味に適わないような顔だけ整った不良まがいの女子から誕生日を祝われ一緒にケーキを食べた記憶がある。当然発展しない。

 その後、2年生の頃には後輩の、この種の高校には付きものの、家庭環境も精神状態も悪いような後輩女子からDM越しに連絡を受けて仲良くなった。わたしは、さっきのようなことを言っていたが前言撤回、この後輩を我が物にしようと狙って動いた。しかし事はうまく運ばず、かえって先に仲良くなった友人のほうに行ってしまった。まあ2か月足らずで別れていたのを見て内心ほっとしていたが、ほっとしたのは女子のことではなく、わたしが友人に依存していたからである。しかし結局その後輩からは「Dear ○○センパイ(以下略)」などと書かれた手紙を卒業の際に貰ったし、わたしのことを好いていたんだろうと思われる。「東京に行ってもいつか帰ってきてください」なんて書いてある。そういえばこのとき、もう一人の後輩からも手紙を貰っていた。その子はまあ体重にしろ顔面にしろメンタリティにしろ冗談も大概にせえというような女だったが、それはともかくとして一緒に猫の多い島に船で行く約束までしていたような関係である。しかし、結局その子の親の猛反対で潰れてしまった。だから、せめてものこととして手紙で心情を打ち明けてくれたのである。わたしはなにかあんまりなことを書いた気がするが、それはともかくその子たちの心情は大切なものなので、内容については書かないことにする。

 わたしはとにかく「そういう人たち」に好かれやすい体質を持っているらしい。もちろん半分はわたしが彼女たちを選んでいるのであろうが、当然彼女たちにも行動の自由はあるので、わたしはどうしたことかそういう人たちに選ばれているのである。

 

その5,上京、大学に入って

 東京に来た。小田急沿線の寮に入った。寂しかった。そうしていると、DMをとおしてLINEを交換し、毎晩徹夜で深夜通話をする危ない友人ができた。反出生主義の話などをしていた。4月早々だったと思うが、今度は地雷系ファッションとサンリオが好きな量産型の女子と懇意になった。狙ってなどいなかったが、そういうことだった。大学の履修登録の相談に乗ったのである。その後、都内で3回ほどデートをした。その際もまたれいの奥手の悪癖が出て、新宿のカフェで込み入った話をしてとてもいい雰囲気で、夕方の景色が夜に塗り替わっていくところを都庁の展望台で一緒に見たのだが、発展しなかった。「もうちょっといていい?」などと聞かれたが、わたしは愚かで鈍感だった。そのまま何もなく帰ってしまった。そうして、その次には、ありがちな、「怒って帰る試し行動」のイベントが発生し、わたしは精神的失調をきたし閉鎖病棟に入院する羽目になったのである。

 ここでわたしは終わらない。その年の9月には大学でわたしを見掛けただけの先輩女子から連絡がきた。「気になっている」ということだった。

 ここまで書いていて思ったのだが、わたしは実は条件として見た目がよいのではないか?わたしからみるともっとモテてもいいであろう友人などいるのであるが、彼が女性とリアルで縁をもつような話を聞いたことがない。わたしは条件を満たしていて、そのうえで体質がマッチングするのだろうと思う。先輩も、メガネをかけた文学女子ふうのメンヘラであるように思う。

 今年もいろいろあったが、どうも書いていて思ったのは、まだまだ終わりそうにない。ここで終わらないだろうな、この直観だけが確かなものである。

 さて、終わらないとすれば、どうしたものか。わたしは才気ある女性にはそれを活かして活躍してほしいと望んでいるので、彼女らにはなんらかのかたちで成功してほしいし、そうであればわたしはネットに文章を掲載するだけで、あとは家事の能力などを磨いて陰に引っ込んでいたい。そうであれば、やることは決まった。掃除をしよう。