ふわっと毒親デカップリング

 今回は、毒になる親との関係をふわっと考えてみる。

 わたしがこれをできるようになったのも、親との心理的距離が圧倒的に遠ざかったからだし、そのうえ、それ以上に今まで唯一の父親であったものが「肉の父」に格下げされたからだ。

 

一、ラディカルトウソウ主義

 こんにちでは、ラディカルトウソウ(闘争/逃走)主義をとる人が圧倒的に多いように感じる。これは、とくにインターネットを通してそういった言説が広まったり、或いはそれ以前の90年代から、トラウマ言説を愛好するメンタルヘルス系女性に愛好されたという経緯も見受けられる。わたしの母親が、「虐待」や「トラウマ」などの言説をよく好むと同時に、おそらく同じモードでニューエイジ思想の本を読んでいた。

 ちなみに付言しておくと、その筋、といってもわたしの通う教会の、神学校を出た若手の牧師から聞いたところによると、ニューエイジは、主にクリスチャンの二世三世に流行った思想だそうである。ここから評論ふうに90年代のグノーシス主義についての背景を語ることもできると思うが、ともかく、内実としては、「父」を立ててしまうと具合が悪いので、霊的な世界観から「父」だけを抜き取ったようである。

 わたしにはあまりいい戦略に思えない。むしろ、敢えて良き「父」を立てて、その「父」によって「肉の父」の経験を書き換えたほうがよほどいいように思うのだが。

 それはそうと、確かに、90年代以降、母親のような「メンヘラ・トラウマ」は流行思想である。実際には、「親」の原像は人間心理の基本において、古典などを参照すれば、およそいいものではないらしく、多くの人にとって親は問題児であるらしい。

 

 ラディカルトウソウ主義において、例えばどんなものが描かれるか。劇化してみよう。

 

「おまいこんなんばしよっつか!!殺されたかっつか、なあ!!」(殴打、蹴る、棒で叩く)

~10年後~

 俺はもう金輪際親とは関わらず、独り立ちする。なぜなら、たとえこちらが大人になって、以前のようなことはなくとも相手の心理は変わっていないから、具合が悪くなる。

 

 だいたいこうしたしだいで、親と縁を切ることになる。

 

 書いていて、これで悪くないと思えるし、古典の教えるところも、心理的に親を殺して、すなわち「殺す」というよりも「切断する(デカップリングする)」というようなニュアンスだが、そうして、独り立ちするのがいい。

 あくまでもわたしは『聖書』が助けになったが、そのほかさまざまな道が備えられていて、何を選ぶかはあなた次第だが、道を選ばず完全に独覚で、などと考えるとよくない。しっかりと、自分の選んだ道を行け。