わたしは精神論者になった。
そう言えるのは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』における「大審問官」の「石をパンに変えなかったイエス」の議論で、石をパンに変えない信仰に目覚めたからだ。それはすなわち、わたしがかつて抱いていた発達障害主義と田中角栄主義への決別の結果でもあるだろう。
わたしにおいて、田中角栄への郷愁と自身が発達障害であることへのこだわりは一致していた。むろん、今もわたしは発達障害者である。しかし、以前のようなそこにフォーカスしすぎた内的こだわりはない。
田中角栄は、トンネルを掘ることで石をパンに変えた男だった。そして、金銭を再分配した。一方、イスラエルからの帰国後『田中角栄研究』を執筆して角栄批判に火をつけた立花隆が『臨死体験』にこだわったことや、「謎の空白時代」で弘法大師空海を描写したことは繋がっている。日本において、或いは例えば三島由紀夫の『美しい星』で暁子が処女懐胎を信じたような、「金星の至福」を掴んだのは空海だったろう。空海は、聖書に翻訳して言えば「天からのマナ」或いは「神の国」を知っていた。それは「精神=聖霊(Geist)」の先にあるものだろう。
発達障害は霊肉二元論、および心身二元論においては、一貫して肉身の基盤に根を張る障害概念である。そしてそれは訂正不可能だから、イエスが「あなたの信仰があなたを救った」と言っても癒されない。
しかし、信仰は見えない目を開く。そして、一人残さず救いたい神のもとで人々は肉を持って復活する。だから、キリスト・イエスは幽霊ではない。信じる者は救われる。
一方の山本太郎は攻撃者に向かって言う。「そんなあなたも救いたい」。そんな山本太郎に、以前のわたしは魅力を感じていた。
あらゆる古典的名著はばらばらのことを宣べ伝えているのではなく、古典になるなりに一致した見解を様々な換言を用いて様々な位相で様々な内容で教えている。
汝の父祖の残せしものを、己のものとすべく、自ら獲得せよ。(ゲーテ)
ショーペンハウアーも引用したゲーテのこの言葉。ここには文化的共同性があくまでも自己組織的であるしだいが明かされている。様々な古典はわたしを文化に嚮導する。河本先生は言っていた。「家の庭で植物を育てるとき、ネットや棒で蔓を這わせる。そうすればうまく巻き付いて伸びていく」と。ゲーテの設定は「3000年」。文明スパンの古典を自己の経験に沿わせて様々な文化的変数を獲得していくこと。
そのために、こんにちの文人はイラストも描こう、有益な文章も発表しよう。然り、ゲーテは実験もしていたが、職業は決して暇で自由なものではなく、ワイマールで政治家をやっていたではないか。
個体の文化の参画過程で、こんなことがよく起こる。「面白いな、一致するな、これ前も見たな。えっ、これって共同幻想だったの!?」。
一冊一冊に、長く付き合わなければならない。例えば、親友と、仲良くしたり喧嘩したりしながらも結局気の合う仲であるように。或いは、パキシルのように。図書館や大型書店にある本でも、大半はゴミ、本当に大切になる本はそのうちの1%以下。自分だけの道を進むほかない、敷かれたレールという表象ははじめから対象を欠いている。しかし、やってしまったことの結果は全て天命のなすがままに。