『精神現象学』の覚え書き まえがき1(生命の有機構成の動的体系と生きた実体的超越の位相的展開)

 わたしは、この頃「精神=聖霊(Geist)」が気になっているため『精神現象学』を読み始めた。基本的に、Geistに関しての最大の古典はこれで間違いない。確かに現代的な意味での「現象学」とは全く異なるが、ある意味では確かにこの書物は「Geistの現象学」を果たしているように思う。そのような見立てを持っての通読である。そして、この書物をつうじて、わたしのもっている分裂したリアリティがそれぞれの固有性を損なわずに統合され、しかも共同性を獲得するという「読み」を直観しているのである。

 

・つぼみは花により反駁された、と考えるのは誤りであり、展開過程(プロセス)のうちに真理がある。つぼみは花になり、花は実になるが、どの一つとして不要でない。「三つのものが所を得ることによってはじめて全体の生命ができあがる」。

 

 生命の有機構成(オーガニゼーション)の体系(System)がプロセスであるしだいを示している。このことが同時的に、1=3という等式の成立が動的なプロセスでしかありえないことを示している。わたしがどうも最近、思想的にも信仰的にもあまりにも「西洋化」してしまったからこうした読みとして理解できるのだろうが、この後の箇所からもわかるように、無時間的=超越的には、あくまでも一は一である。しかし、真理は生成プロセスであり、精神的なものの運動なので、一が三として展開プロセスを踏み、再び単純なもの(一)に帰還する運動のほうこそ真理なのである、という理解。

 また、わたしと付き合いの長いインテリゲンツィアな友人の言葉を念頭に置けば、例えばドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』の扉で、ヨハネによる福音書の「一粒の麦、もし地に落ちて死なずば…」を引用していたように、ヘーゲルの、のちにエンゲルス以下各評論家に参照されるこの有名な事例は、「死んで生きる」ことへのイメージ操作になっている。ところで、『カラマーゾフの兄弟』の中のドストエフスキーの地語りで思い出した箇所があるし、とても大切なことなので引用しておく。

 

彼〔アリョーシャ〕がこの道に入ったのは、もっぱら、当時それだけが彼の心を打ち、闇を逃れて光に突きすすもうとあがく彼の魂の究極の理想を一挙にことごとく示してくれたからにほかならない。さらに、彼がすでにある程度までわが国の現代青年であったことも、付け加えてみるがいい。つまり、本性から誠実で、真理を求め、探求し、信ずる人間であり、いったん信ずるや、心のカのすべてで即刻それに参加することを求め、早急に偉業を要求し、その偉業のためにならすべてを、よし生命をも犠牲にしようという、やむにやまれぬ気持をいだいている青年なのである。とはいえ、不幸なことに、これらの青年たちは、生命を犠牲にすることが、おそらく、数限りないこうした場合におけるあらゆる犠牲のうちでもっとも安易なものであることを理解していないし、また、たとえば、青春に沸きたつ人生の五年なり六年なりを、つらい困難な勉学や研究のために犠牲にすることが、たとえ自分が選び、達成しようと心に誓った同じその真理や同じ偉業に奉仕する力を十倍に強めるためにすぎぬとはいえ、そういう犠牲は彼らの大部分にとって例外なしに、まったくと言ってよいくらい堪えきれぬものであることを理解していないのだ。アリョーシャはみなと反対の道を選んだだけで、早く偉業をなしとげたいという渇望は同じだった。真剣に思いめぐらして、不死と神は存在するという確信に愕然とするなり、彼はごく自然にすぐ自分に言った。

 

 予告するが、この件に関して、キリストの「反逆の倫理」に関して、また、ドストエフスキーが提出した文化型の問題に関しては、はてなブログではなくnoteで本格的に書いてみたいと思ったので、「弁証法」の問題と「互いに愛し合うこと」と「友のために死ぬ」ということの意味・意義について、近くnoteで「死の概念と現象」について考察を展開してみたいと思う。すなわち端的に、生命活動を停止することが「死ぬ」という感覚や現象であるという事態は一つも成立していない可能性が高いのである。