わたしはここ1年、視野を狭めることで安定化してきた。しかしそれは、学問においても生きるにおいてもきわめて具合の悪いことなので、再度視野を拡大しなければならなくなった。そこで、視野の広げ方を模索する。
ショーペンハウアーがカントと自身の哲学に関して、カントは目を見えるようになる手術をしたが、まだ眼鏡をかけてない、ということを言ったが、これは別にカント哲学でなくとも成立する主張である。そこで、哲学領域における視野というイメージは成立しうる。実際には、ある特定の、ごく限られた変数によってしか経験世界を解釈できなくなることに等しい。
そこで、様々な人物やジャンル単位に開かれていくことが要請されるが、わたしはそこで自己組織化を使う。荘子の「混沌」の話で、混沌に外から穴をあけると死んでしまった。理由。内側から開けなかったから。帰結。わたしたちは、自らの経験に沿って本を読み、自らの経験から組織化していかなければならない。例えば、恐らく体質からきたものだろうが、わたしがうまくアニメを視聴できていた時期は、自ずから「けいおん」を視聴し、自ずから「キルミーベイベー」を視聴するなど、あくまでも自己組織的に、或いは野性的に対象選択し、しかもそれが後から振り返ると案外共同的であったし、体質に合っていたようだ、というしだいである。この感度が「死なない」ために大切になる。或いは、「死ぬ」モードは、永遠の生を約束する無限の対象に関してのみ妥当させるのが吉というものだ。すなわち、いわゆる「開発」、無理に外側から新規「開発」をしようとする態度は、基本的にうまくいかない。むしろ「開発」ではなく、必要なのは既に生えている芽がうまく成長して実るようにする網(ネット)である。先日「クラシカルネット」に関する文章を書いたが、そのような感度で、いわばネットを構築するために古典を読んでおくような感覚に近い。神の前に死んだからといって職業や生活に必要な本を一切読まない人は、愚か者である。そういう人は、誰とも会話や取引をせずに一生を過ごすのだろうか。
そして、微調整や、たんなる理論の補強や正当化ではなく、本当に精神を嚮導するような本は、わたしのみるところ古典にしか求められない。こんにちの神話ネットワークには陰謀論のようなパラノ体系もあるが、経験則上、あれは人を病気にするものであるから、よしたほうがいい。たんなるお話で終わってくれる快適な物語は、あくまでもその本の中に閉じているが、神話や陰謀論、或いは哲学や科学は、かえってわたしたちの外界に投影され、現実性を規定するような逆立を起こす。
わたしは、流行する科学的、或いは法則内在的世界観がかえって混沌をもたらす事情を知っている。そこで、理やロゴス、場合によっては混沌を外在化(超越化)させて、宇宙をその射影とみるとうまくいく場合が多いようである。わたしは、以前のようには通俗化した理論物理学の世界観を信じないようになった。このあたりの事情に、わたしが「神話」を重視する意味もあるし、また、「おられる」ということを重視する意味もある。はじめから完全に信じる必要はないが、信頼の感度は持っておいたほうがいい。そうして、人を健康にする世界観と生活実践をもつことが、そのまま余裕につながり、その余裕がなければ、道徳の実践は生じない。下手に善くあろうとした結果かえって周囲の迷惑になる事例には事欠かない。そういう人たちの内実は、根っから悪くあろうとしたのではなく、むしろ誠実に良くあろうとしたが対象選択に失敗している可能性が高い。そしてこのことは、その人文的治療が一定の成果をあげることとも関係しており、問題はかなりアクチュアルであると思われる。
科学が神話を規定するとみる向きもあるが、それは言えば「大いなる反作用」であり、実際には、人間の本性的に、神話が科学の進行を規定している。すなわち哲学や思想にも神話的機能を認めるならば、哲学や思想もまた科学の進行を規定し、ひいては共同体の進行を枠として規定する。枠の中でどう固有の歴史的展開を遂げるのかは、その蔓がどう伸びていくのかというイメージで捉えられるが、それに関しては先ほどのアニメの事例のように、その共同体の体質がそれを予定するだろう。しかし、ニーチェがいなければニーチェを読む青年は存在せず、誰かほかの書物に伸びていたであろうように、どのように網を掛けるのかは、予め決定するパラダイムではなく、たびたび調整を加えるだろう。
今具合の悪い人は、一旦落ち着くために既定の神話世界に入ったほうがよく、知的に生まれついているのに知的な経験を踏まない人は、知的でない人よりもいっそう愚かである。個体規模でも国内規模でもなく、地球規模での課題が進行形の今、しかし個体を軽んじる者は個体性につまずき、国内で場所を失う。そうしたなかでの体系の形成のために、洋の東西を問わない文化変数の獲得が、こんにちの文人には求められる。