ここしばらくの活動~イラスト、喫茶店、カラオケ、文学~

 ここしばらく、尊敬している河本先生が「美は一番広いんだよ」と言って、「美・善・真」と言っていたことがわかってきた。知は若い、意識のモードが能く追求するものだ。だから、いつも言っているニーチェや芥川のアフォリズム、或いはロマン主義の断章などというものはいつになっても青年の所有物である。美、或いはこれはれいのドーパミン性だけのものではないことが察知されてきた。当然「広い」のだから、それも含むが、それ以上の広範な分泌と、もっと言えば広範な記憶や経験に関わり、訴求力が高い。サピオセクシャルのなんと狭いことか!私が美学を研究している、人柄的にも美的な先輩に惹かれる理由がわかる。善としての公共を追い求める友あり、しかし彼も美から善が生起すると言う。私と仲良くなれるくらいだから、当然感性が鋭い。私はほぼ20年来知、あの純粋で誠実な知にプライドの根拠を置いて生きてきた。やっと脱せそうである。しかし、これは、知を追求してフィロソフィアを通過したからこそ成し遂げられそうになっていることである。頽落した末ヤンキーにもなれない一生田舎暮らしのいやらしい地方都市人には知も美もできない相談である。

 

 さて、そういうわけで、私は最近イラストを描き始めた。まず、私は絵などの図工系がとことん下手な性質の神経発達をしているので、それでもなお芸術的表現を身に着けるために、まずは模写からである。好きな漫画である『少女終末旅行』の主人公の模写からである。主人公の「チト」というキャラクターは描きやすいから、まずはそこからである。あと、美学先輩がチトの相方である「ユーリ」が好きなのに対して、私がチトを好きなのは、或いは美学先輩の「(チトのように)女ってヒステリーだから!」とヒステリックに主張していたことを当てにすると、私はその「女のヒステリー」で指示されるところの対象への憎悪を忘れてきたのだろう。そういう美学先輩の哲学遍歴の、ニーチェで入ってショーペンハウアーというのは、まあこの人ならそれ行くよなというのがよくわかるが、畢竟私はオカルト好きの少年がピンクレディやら『NHKにようこそ!』やらに凝っていたのが最近になって「ユング心理学の元型」になったまでのことなので、私には当初からの首尾一貫性があり、先輩のような「哲学のロックンロール」は、それ自体は好きだけれどもあくまでも「彼らの哲学」としてはたから見ているようなところがある。すなわち、母親からスピリチュアルを、いとこのお姉さんからは文学と性嫌悪を、先生からは経験の拡張と地に足の着いた哲学を、親友からは和解と癒しを、そして、先輩から徹底して抵抗する姿を受け取ってきたが、この経験の異物のような先輩から貰うものは敵意でなく適意だけであればよいのだが!

 

 さて、土曜日には近所の純喫茶ペガサスに行った。ずっと部屋に籠っていても毒だと思ったから、昼間の暑い時間ではあったが赴いたのである。コーヒーとアップルパイのセットを注文した。そうして、最近これまでにないほど精神から不安が拭われ、それは恐らくこれまでの数年間とは違う局面段階に、イメージで言えば層状になっている経験の段を一挙にのぼったような感覚なのだが、だから、落ち着いた気分で無理なく人間観察ができた。私はこういうときにもまだ自意識は邪魔するほうなので、脳内ではあくまでも「取材」という態度であったが。

 大学生ふうの男2人がスマホでゲームをしながら笑っている姿あり、短髪の快活そうな年配女性2人が、煙草をふかしながら歓談する姿もあり、移動の際、片方の女性が店員の若い女性に「サンキュー」なんて言っていた。

 隣の席では若い男2人が並んで座って煙草。いい感じの空間だ。

 私はその中で、ピースを吸いながらアップルパイを食べる。吉本隆明の『マチウ書試論』を読む。店員さんたちは皆狭い空間を小走りだ。サンキューである。

 

 月曜日はカラオケのjoysoundを選びフリータイム。様々な曲を歌いながら印象を得る。

 H2Oの「想い出がいっぱい」は苦しくなる。いや、青春の情動を歌った曲がもうだめになってきた。受け付けない。情動が誇張されている。しかし、確かにその日その日を狭い経験で生きる人々にとって、青春は圧倒的情動に満ちているはずなのだ。

 「創聖のアクエリオン」は面白い。「一万年」や「一億年」という人類史、生命史、宇宙論的な単位と「二千年」という文化固有の単位がカップリングしている。なればこそ、「一万年と「二千年前」から「愛してる」」になる。一万年も、一億年も、私たちにとって捨て去れない生成の歴史である。ところでこの曲では「海神(わだつみ)の記憶」がうたわれている。面白い。

 PUFFYの「アジアの純真」は凄い。確か作詞は井上陽水だったはずで、「夢の中へ」のビデオでも凄まじいと思った人だが、改めて「アジアの純真」を歌うとまるで予言だ。熱の出る夜にネットにアクセスして流れ出たらもう「アジア」なのである。今の私たちの世代を見るといい、思想史的にもそういう時代になった。今に始まったことではないが、ちょっとロマン主義シンパは西洋、もといドイツかぶれが過ぎる。東アジアにおける信仰と公共、というのはフォルムのない日本における永年のテーマである。(ロラン・バルトを参照せよ。)

 放課後ティータイムの「ぴゅあぴゅあはーと」はとっても懐かしい。思えば記憶に残ったり、残らなかったり、私も色々なアニメを見てきたようだが、最初の深夜アニメは「けいおん!」だった。けいおんの劇中曲はとてもあの頃の一人趣味の楽しみを、美のモードの情緒を伴って回顧させてくれるのである。だから、こういうのはたまに歌い、たまに聴きたい。いつも聴いていると記憶が上書きされ忘却してしまう。いい本などもそうであればこそ一生涯「5年に1度」でいい。

 「春泥棒」(ヨルシカ)は季節を問わずお気に入りである。「言葉如きが語れるものか」。

 

 文学では、芥川、太宰、三島の「三文豪」の中で最も美的なのが太宰であることがつかめてきた。芥川も三島もかなりの程度知が先行しているが、太宰はとにかく自分自身を曝け出して共感性で書いている。そして、細やかというよりも機微があって美しい。三島の『美しい星』も読んでいるが、非常にテーマ性がはっきりとしており、精神分析神秘主義と宇宙と共同性の織り成す物語が楽しい。つまり幾分か「わかるひとにはわかる」ところが強すぎる。また、60年代はそういう時代でもあったろう。

 晩年の芥川なんかを読むと悪夢に魘される。三島は『美しい星』の「金星」や、屹立する「金閣」の炎上など、ともかく闇夜の煌めきとしてのロマン主義をあまりにもストレートに表現していて、華美で装飾的な表現も相俟ってどうも美観が単純だったんじゃないかと疑っている。その一方で、太宰はもっと広くおっとりした機微で、美のモードで共感性に訴えかけるように書いている。また、太宰が書くものは知るかぎりどの作家よりも「人間模様」である。本人も言っているように、あんまり人間が好きだったもんで「父の霹靂」に始まり始終人間に怯えて死ななければならなくなったのだろう。その点では芥川や三島の「神話的」な領域での怯えのほうがよほど現実的で迫真性を感じるのであるが…。結局、ここまで書いたようなことから、「女々しい」とされる太宰の、圧倒的に強い性欲と男性性が明らかになるだろうし、私がなぜ太宰よりも芥川と三島に近さを感じるのかもわかる。すなわち、なればこそ私は先輩や太宰に「美」を見るのだろうか。先日ごろ後輩と話をしたときに、後輩が、芥川と太宰は「弱すぎた自殺」、三島は「強すぎた自殺」と評していたが、私にはどうも、三島が最も弱かったように思えてならないし、身勝手に逃げ切って女と連れ立った太宰の一人勝ちである。

 そういうわけで、私が筋を通す人間ならばあまり先輩や太宰にフェティシズムを感じていてはいけない。しかし、美からこそ善が生起する。また、美は嚮導する。確か、先生は「美・善・真の上に健康を置いた」と言っていたが、確かにそれは正しい。健康を強いて美や善から峻別して設定しておくことは大切だ。なぜなら、たがの外れた美ではなく、健康が美より上に来なければまさしく「具合が悪い」からだ。私は健康のために聖書を読むのであって、別に聖書のために健康にしているのではない。しかし、信仰のモードが全てを包摂し、なおさらに良き調和と友愛を育むとしたら?古人はこのことも、とうに見越して一言に纏めている。すなわち、死んで生きる。