自己生活指導

 生活には全体性があり、個体は同時的に異なる場所に分身できない。ゆえに個体においてはただ一つの継起的時間とただ一つの在所空間という、いわばカント的時空が正しいのだ、という設定をおいてみる。

 そうすると、わたしは確かにその只中に一人で存在したり活動したりする者であるが、眠っているときやただくねくねしているときなどのように、端的に存在しているような時間もあれば―しかし端的に存在していてもエントロピーが溜まり続け、排泄をしなければならないし、ゴミも出さなければならない、やがて外にも出なければならない―、頗る活動的な時間もある。だから、わたしが生きるというとき、わたしは確かに延長と色彩をもった「歴史」のなかを進んでいる。ちょうど、新宿駅西口で、右手にコクーンタワーを見ながら人通りの中を、人の流れに沿って、或いは人の流れに逆らって、歩いて行くように、である。

 

 歴史は人混みのように進む。また朝、すなわち光の時代が到来する時であれ、少ないながらも新宿駅から町田に向かう人もいるものである。しかも、彼らにも何かしらの合理性があるものである。

 デカルトは、当座の格率で、同時代同社会の最も良識ある人々に従う、とした。すなわち、人混みがどうであれ、従うべきはわたしの行く道に沿った案内板である。いざよし、Twitterは人混みというよりも人混みの中から口の数だけの雑音の断片だけを抽出したようなところであり、人混みではない。人混みは、現実的には交友であり、家族であり、読書である。

 銀河鉄道のさなか、静寂は母に出会うが、その後二人は再開する。すなわち、東海道中山道のように。東海道にも別様の可能性(異なる道)はあるものだ。そうすれば、わたしたちの行く道は、求めるものは与えられるものである。望みがあれば光はあるものだ。逆ということを考えてみるとそれがよくわかる。すなわち、一つの蝋燭が消え去れば、また別の蝋燭が灯されるだけであり、もう、前の蝋燭を気にしない。

 

 さて、何が問題となっているのだろう。わたしたちの生活を鑑みるとき、実は、問題だ、問題だ、と思っていても、何が問題になっているのか、をわかった気になることほど容易いことはない。肝心なのは、何を課題として設定するかであり、身体が課題を訴えるとき、課題について考える必要がない。必要なのは計画性や合理性よりも、信頼を高めること、愛があること、そして、同ぜずとも確かにその「時」というものの日和を見ることのできる君子であること。ものごとには「時」というものがある、とはソロモンもそう言っている。時を見つつ、義勇であること。義に対して太宰治のように過剰な甘えの要求を起こさないこと。後悔することを問題にするのは愚か者の疑似問題である。肝心なのは、後悔を恐れるような自己を、自己制作によって恐れから解放すること、そうして、後悔や恐れを起こさない自己を制作すること。「恐れるな」の感度を持ち、嵐を鎮めつつも、主を試すような破滅願望を起こさないようにすること。できる。

 はてさて、ではわたしは何を課題に設定しよう。こうしてただちにわかることが、課題設定は既存の、とりわけ専ら最近触れたものからしか出てきようがないということ。こうして、課題は「何に触れるか」ということになってくるのである。しかも、触れる対象に強度を感じなければならない。多分、人間よりも高度な知能を持った生命体がいたとしても、わたしたちは彼らのコミュニケーションに強度を感じない。ただ、大衆が難解な哲学書に目を通したときのような感覚を持つはずである。だから、焦らずに、今の時に固有の経験を淡々と楽しむようにすること。

 

 さて、何を訂正しようか。そうすれば、どうもより良くなる道は多様に分岐していることがわかる。しかも、多様な分岐の一つ一つの道は明確に固有であるが、そこに入ればその中でさらに分岐があり、ゆらぎにおいて飛び出す可能性もある。しかし、時間という女王はまちがいなくわたしたちを老化に導くのである。

 

 わたしには悩みがあまりない。ただぼうっと生きている。いわば執筆機械である。わたしたちが執筆機械になるとき、身体機能は非平衡というよりもきわめて動的平衡的である。だから、動的非平衡の議論はこの場合においてはむしろ精神にふさわしい。修証一如の行為存在論であるとき、活動態の副産物は黄金の糞である。身体において黄金の糞は出ないが、食事で摂取したエネルギーは大谷において黄金になるではないか。だから、白米がブドウ糖になり、神経において発動すれば美しい音色を奏でる人はいるはずである。

 課題を作り出すことよりも、まずは、余裕をもってみること。主の山に、備えあり。