たんなる信仰のモードとしてのキリスト教

 大衆を指導しようとする人は、まさに大衆を指導しようとするその原理に一度ほとんど呑まれることを通過することによってこそ大衆を指導しうる。

 わたしは現在、キリスト教をたんなる信仰のモードと捉えている。すなわち、「手続き記憶」としての信仰である。

 キリスト教を徹底的に攻撃したニーチェにも誤謬がみられる。すなわち、彼は「善悪の彼岸」などと言っているが、倫理的善悪観念に立つ人と非常に近いところに立っている。すなわち、意識的判断による誤謬が生の条件だと考えている。完全に間違っているではないか。そうではなく、例えば、統合失調症認知症は意識や認識の病気ではなく、「見当識」や「手続き記憶」が障害されるところに要がある。意識ごときにそこまでの力はない。むしろ、さまざまな「手続き=プロセス」を獲得していくところに学問の本領があるのであって、意識に浮かぶ言葉やイメージを覚え込むところに本領はないし、信仰もそこにはない。ゆえに、フロイトが「宗教一般」を総じて強迫神経症と断じたことも、恐らく無神論者かつ父殺しの文化人であった彼の信仰心得違いに求められる。

 だから、対症療法をしながらも根本的には「長い経験」の感度で、長くひたむきに手続きを獲得する工夫をしなければならない。例えば、転びながら自転車に乗れるようになるように。これを否定する者は概して怯懦の侏儒である。人生とは、泳ぎながら泳ぎを学ぶことであるし、しかも泳ぎの型は様々であり、船の操縦やボートの漕ぎ方を学ぶこともある。

 

 わたしが河本先生に傾倒したのは、河本先生と会ってはじめて、と捉えるよりも、むしろそれ以前から似たような考え方を持っていたからというほうが近い。わたしは、あまり変なような敏感さをもって生きる大勢の迷信にとらわれた人たちの気持ちがよくわからない。最近少しずつわかるようになってきたが、やはり彼らは、いわば、知識人と呼ばれる人たちでさえ、未だ啓蒙を経験していない。鈍い人にとって、先験性は経験しなければ獲得されない。先験性は経験することによって獲得しなければならない。

 

 正しいと確信することは、現象学的拡大鏡を用いると、むしろ間違うことをも正しいとしうる内外の区別なき信頼感を抱くことによって成立している。だから、否定を積極的に肯定できる自己を獲得することによって決断を果たせるようになる。これを未だ芽の伸びていない心ある青少年向きに語ると、「間違いなさい」「徹底して間違いなさい」となる。

 

 但し、というところで、当該社会に背くものは公共性に阻止され、それが病理をもたらすことがある。しかし公共性は統一されていない。そこで必要なのは、十分にモードを拡張しており、経験に弾力性があり、しかも普遍的公共性を備えていることである。さすがに、ワルいとされる人でも、見ていると当然ながらの線引きは備えている。すなわち、普遍的な線引きをも獲得し、孔子が言ったように「矩を越えない」こと。そうすることによってはじめて獲得される自由と責任の両立がある。

狂気の倫理主義

 たまに、全ての事柄を「是非」に分別し、しかも自分の立場をいつもつねに連字符的に優位に置き、相手を劣位に置くような人がいるが、わたしはそのような態度をとらない。

 わたしは、その点で、儒教だけでなく、既成キリスト教会のことが嫌いである。イエスの精神はそのようなものではなかったからである。そのことから半ば必然的に、わたしが聖書中心主義や教会中心主義をとらないところも導出される。というのは、パウロは既にしてイエスの精神を歪めているからである。わたしのキリスト教に対する思いは、イエスのファンクラブとしての側面であり、規律訓練の道場ではない。

 

 全ての事柄を「是非」に分別する人に起こることをふと想う。

…彼は自分の絶望的な劣等感を埋め合わせるために、いつも自分を優位に置き、他者を劣位に置く衝動に駆り立てられている。そしてそれを実践しているが、あるときから、その優位性にほころびが出始める。そうして、彼の精神は急速に、しかも加速度的に崩れていく。それまで散々馬鹿にされていた友人も、その柔和さと優しさによって彼を助けようとするが、彼はそのことによってプライドが傷つけられ、ますます没落していく。そうしてとうとう、金切り声を上げながら監獄に収容されることになるのだ。

…そこではじめて、これまでの失敗を悟る。その日、友人が彼を見舞い、ようやく新たな始点に立つのだ。

 

 このことに思い当たりのある者は、ただちに改めよ!さもなくば、あなたはあなたのファルスによって滅びの道を突き進むのみなのだ!

 

…と、書いては見たものの、これはたんなるフィクションに遊ぶ者の戯れであり、実際の世界、特権的な遊びの世界、文学や芸術の世界でないかぎり、或いはそうした営みに従事する者であっても、現実生存にあっては、他者の顔がnonと言ってくるそのこと自体があなたを生かしているものなのである。つまり、たんに倫理的に画一化されるのみならず、倫理的に統合されるのは最低限の規範のみであり、その他一切の圧倒的に多様な心理と身体は、それでもやはり相互に批判と否定をぶつけ合うことではじめて健全さがチューニングされるのだ。このことを悟ったとき、国家権力だの父の威圧だの恋愛友人師弟長幼のトラブルは、むしろ言祝がれるべきこととして新たな定立をみるのだ。

プラネタリウムと悲劇鑑賞の根本差異~プラネタリウムとスカトロジー~

 今日、わたしは思い立って池袋のプラネタリウムに行ってきた。アラブの世界を提供してくれる番組もののプラネタリウムであったが、幼少期に母子寮に住んでいたころによく母親にねだって近所の少年科学館のプラネタリウムに行っていたころは単調な星空の解説だったので、番組ものは今回がはじめてだった。

 うまくできている。そもそも、ヒーリングものなのでそうなのだが、まず、癒されたい姿勢の人が来ており、ナレーションもかなりストレートに催眠に走っている。わたしは、それらによって、また室内に香るアロマの香りもあってか、何度も感動の波が来て、何度も泣いた。非常に良かった。わたしの実感だが、涙を流すとその日一日は明瞭に系の状態が変わる。おそらくその効果はしばらく無自覚的に持続しているはずである。だから、たまのカタルシスはなければならない。

 

 カタルシスというと、アリストテレスが、当時の悲劇作品に見出したような、緊張からの解放による涙が想起されるが、それとプラネタリウムは明確に異なる。

 わたしが以前から指摘しているように、悲劇のカタルシスは、はっきりとお漏らしフェチに近い。事例としては芥川龍之介が『侏儒の言葉』で、

悲劇とはみずから羞ずる所業を敢てしなければならぬことである。この故に万人に共通する悲劇は排泄作用を行うことである。

と述べているように、例えばオイディプスがそのクライマックスで母子ともども発狂して母親は死に、息子であったオイディプスが杖をついて退場=世界へと彷徨っていくようなものである。オイディプスは、未だこの世界を彷徨っているようにわたしには感じられる。或いは、そのあたりにうようよしているではないかと指摘したい。しかも、これがスカトロのような快感を人にもたらすのだ。どんどんと緊張が高まる、しだいに、決壊の惨劇が、発狂の兆候の予期が高まってくる…。このエロティシズムである。

 ここにたいへんな過去志向的な問題がある。まずもって、「オイディプス」の構造が過去志向なのは自明のこととして、お漏らしフェチも、「結果のクライマックス=排泄=オーガズム」に適合させてものごとを配置してしまっている。これが過去志向の典型である、未来を見るさいにも過去の反復として結果の予期不安から現在の在り方を規定してしまうようなものである。すなわち、Let It Beの感度がない。オイディプスであれ芥川であれ多分「なすがままに」という「知恵」を持っていなかったのだろう。ここに知恵が必要である。

 

 一方のプラネタリウムの涙は、そんなものではなかった。

 わたしは非常に経験を拡張された感じがある。こうして、無理にでも適合的でないものに触れなければ経験は同一の大きさを保つのではなく、どんどん狭隘化していく仕組みになっていることがわかってきた。だから、経験を動かしたり、或いはドゥルーズの言い方に従えば「不法侵入」をしてくるものを探していなければならない。ドゥルーズにとってはそれが映画(シネマ)であった。

 プラネタリウムでは、アラビアンな世界がテーマで、アブラハムが見たようなあの西アジアの砂漠の美しい光景が投影されていた。まさに、天空の星々に地上の生き物を投影するのは、そのまま投影である。

 アッラーを讃える祈りの声が響き渡り、わたしは激しく動揺したが、しかし、この動揺がとても大切なのだ。わたしは、予め態度や思想を固定的に規定して、その枠内でしか生きないような伝統的認識論や哲学、および「思想」の態度には、個人的には反対である。異質なものを受容しても楽しめる経験の弾力性を大切にしたいほうである。異文化が異文化が交錯するとき、確かにわたしにも守るとともに変えていきたい日本思想はあるのだが、同時に、それを完成するものとしての弾力性もなければ成り立たない。

 そうして、プラネタリウムの涙は、結果に適合させたカタルシスではなく、おぼろげなまどろみのなかでのよく自分でもわからない涙である。ここに、セッティングの作為性は強くても、物語の結果に向かうような作為性がないのである。「ここで泣け」というものではなく、各々が感じ入ったところでそれぞれの感じを大切にするところがある。だから、この「開かれた」感度が、どちらかといえば未来志向である。未来志向かつ無反省な人は、これを現在志向だと強弁するだろうが、実際にはそういう人ほど自ずから未来志向を生きている場合が多いようにみている。

 ムスリムの、クリスチャンと同じ神様を祈っている祈りと、人間の心の変わらなさ、すなわち、祈っているとき、彼らもだいたい同様の心性が動いているのである。そして、宇宙にはなぜ祖父を感じるのだろう。宇宙の星々の父祖性、空を見上げる父祖性は、例えば、わたしによくしてくてた、いとこたち、子供たちに大人気だったわたしの大叔父が、彼の孫と台風の目を見上げながら、彼が孫に台風の目を指さしているような光景として、かなり昔から想像される光景がある。父祖アブラハムも、神に促されて宇宙を見上げ、星々のように子孫が増えるという祝福を受けた。この原像は、なにかあるとわたしは嗅いでいる。或いはそれは、祖父こそが「導きの星」であるという事実かもしれない。宇宙において、祖父と母が交差する。

 世界でも、祖父は幼い男の子に星々を指さしたのだろうし、星座を作り出した航海人や砂漠の商人たちは、寂しかったのではないか。そして、祈り。家族は、総出でその子供に祈りのしかたを教える。とにかく、形から。世界中形からだが、形からでいい。その後にどんな信仰に入ってもよいから、形だけ教えておけば、子供はやがてそれを見出すのだ。

 

 わたしの母は、わたしが6歳くらいのときに、星々のことなどを教えてくれていたと思う。特に印象深いのは、「でね!でね!ブー!(デネブ)あんたです!(アンタレス)」というようなことを母親がキッチンで言っていたようなことははっきり記憶している。

 美しい星めぐりであった。

矛盾としての自由

 聖書文化圏の強さは聖書の内的矛盾に依っているかもしれない。

 いっけん矛盾に思えることが、その都度立ち上がること。すなわち、Aという状況に陥った時、Bという御言葉が臨み、Bという状況ではAという御言葉が臨むような感度である。或いはそれは「臨む」というよりも「立ち上がる」のである。

 だから、むしろ矛盾を恐れずに次々と新しいものを獲得していくところに、「教養」=「神化」の真髄があるように思うし、それがヘーゲルの伝えたかったことではないか。だから、彼は弁証法においてビルドゥングスロマンスを表現した。

 イエスも言う。「求めよ、さらば与えられん。探せ、そうすれば見出すだろう」。

 旧約聖書の「コレヘトの言葉」にも御言葉がある。

「あなたのパンを水に流すがよい。月日が経ってからそれを見出すだろう」。

 これで、意味合いがだいたいはっきりするのではないか。

 もはや、そこにおいて「信仰」は意識で信じなくとも、自ずから善きものだけが信じられるものとなる。わたしたちは、困難に遭遇した際には、意識でものを探さない。自動的に探している。パンを流すのは豊かなときである。飢えたときにそれを見出す。或いはそれは「天からのマナ」であるだろう。宮沢賢治は様々な作品においてこの消息を語っているし、『銀河鉄道の夜』のキリストや、『やまなし』など、「天からのマナ」をよく知っていた。即物的即自的に利益になるならないではなく、怖気づくでもなく、端的にやっておけばいい。そうすれば、見出すだろう。

 わたしが以前やまなしを理想化したさい、友人に「無限やまなし」だと馬鹿にされたが、本当に「無限やまなし」はあるのだからしょうがない。しかし、それにも前史はある。確かに一度危険なところを通過しなければ得られないものはある。そのことは、例えば「アウト・オン・ア・リム」であろう。そのときようやく基本的信頼以上の信頼感をもって他者と接するようになる。しかし、見かけ上その人の何かが大きく変わるというわけではないのは、例えば、仏教的悟りを得た人が見かけ上わからないという話と同じである。だから、こうした内的現象の報告は困難を極めるから、詩や神話のかたちでしか「経験の伝達」はなしえず、それを構造的に、またシステム的に「暴露」したところで、経験の伝達としては意味がない。「わかるように言え」と言っても、それはわかるように言ったことで相手がその経験に参入する動機となるくらいの意味しかなく、経験の参入そのものにはならない。なんであんなに長い文学や神話があるのかを考えたほうがいい。

 憂き世が真に浮世になるのは、性の奔放さではなく聖なる体験を通過してまた戻ってきた人である。

 しかし、自在に絵を描きたければ、それ相応の練習をこなさなければならない。そうすることではじめて、困難にあって起動する絵画におけるエントロピーの放出が可能となる。

アニメにおける近代的主体の陶冶

 アニメは近代的主体を陶冶する。

 そのことに思い至ったのは、ずいぶんと前に「星のカービィ」と「のんのんびより」と「ぼっちざろっく」に、「意識承認」の要素を直観したからであるが、最近、近代以前の作品を読んできたなかで改めて夏目漱石の『草枕』を読み、その主体がアニメ「ヤマノススメ」、のみならずだが、昨今の日常系アニメの主人公の心理描写に酷似していることに気づいたからである。

 

 すなわち、彼ら彼女らは、意識で、意識的にものごとをずっと言語的に時間の経過に従って考えている。

 

 従来伝統的には、ものごとはずっとイメージ的で、表象的な作動をしていた。だから、「言葉」と一言で言っても、まさに「御言葉」的に作動する言葉もあれば、「イメージ」的に作動する言葉もあることがみえてきた。イエス=キリストも、のみならずあらゆる人は、通常それを無意識的に使い分けている。

 

 事例…最近わたしが飼っている草花を見るとき、吊るされた草花が揺れるところにその「こころ」を直観するようになってきた。そういえば、わたしの祖母は、わたしの幼いころ大量に飼われていた花に水をあげながら、いつもおしゃべりをしていた。本当に。そういえば、クリスチャンの教授も、「僕花と話せるよ」と言っていた。その教授曰く、わたしの聖書への質問には、「一体化しなければ対話はできない」とのことであった。なるほど、よくわかるところがある。<他者>と為すものは「対話」ではないだろう。それは恐らく、相互規定的な関係における言葉の遣隋使である。その意味での「対話」は、「コミュニケイト」は、もっと、魂で通じ合っているようなところがあるし、相互に浸透している。基本的に、信仰領域や特別な友人や近しい家族との会話などは、この相互規定と相互浸透の二重化でみるとよいのだと思う。移入しつつ、距離をとる。河本先生曰く、「投影しなければ小説は読めない」。すなわち、小説の通常の読みは「ウェルテルする」感度がなければならない。素朴な、哲学性のない思いなしで<他者>を語ったところで、移入する姿勢が無意識的に立ち上がっていなければ、基本的に話も通じなければ彼から言葉を学べるということもない。

 

 わたしはウィトゲンシュタインではない。アインシュタインウィトゲンシュタインは、ユダヤ系であるけれども言葉が出るのが非常に遅いというような人であった。一方でわたしは、日本の地方人であるけれども聞く限り言葉がかなり早く、いろいろなことをいちいち覚えていて気持ちが悪かったとのことだ。ウィトゲンシュタインの言語観にも、ウィトゲンシュタインの批判するアウグスティヌスの言語観にも、両方ともにそれぞれの分があり、正解と不正解を定めることはできない。

 

 人は通常、自分の行っていることではなく、自分のその都度立ち上がった現われだけを記述できる。すなわち、構造的に把握する人は少ないし、システマティックな把握はなお困難をきわめている。しかし、「現象の報告」は、動的にシステマティックな記述でなければメディウムとしての能もない。聖書を読まなくてもキリスト教の信仰は持てる。なぜなら、信仰は教会と一体となったシステムだから。また、哲学も本来、書物はBGMとしての扱いでなければ成立しないようなところがある。先に進まなければならない。

荘子のすすめ~倫理の裏の自己形成~

 旧約聖書儒家思想の裏に老荘思想などをおくということは、中国の文人が表では儒家の顔をして裏では老荘思想を嗜んでいたことからしても、一個の個体として矛盾することではなく、むしろ完成させることである。

 最近わたしは『荘子』に傾倒している。これは河本先生から勧められたものでもあるし、一番信頼を置いている朱子学に取り組んでいる友人からも勧められた。間違いはなかろう。

 

 これがまたいいのである。

 

今夫の犛牛は、其の大いさ垂天の雲の若し。此能く大為るも、鼠を執うる能わず。今子は大樹有りて、其の用無きを患う。何ぞ之を無何有の郷、広莫の野に植えて、彷徨乎として其の側に無為にし、逍遥乎として其の下に寝臥せざる。

(ところが、あの犛牛は、大きさが天空深く垂れこめた雲のよう。これにできる能と言えば、ただ大きいだけで、鼠一匹も取るではない。ところで、君はそんな大木を持ちながら、役に立たないと悩んでいる。万物の根源たる虚無の村里、果てしなく広がる実在の荒野にこれを植えて、その傍らでぶらぶらと無為に過ごし、その下でゆうゆうと昼寝でもされれはどうだろう。)

 

 つまり単純に、「昼寝でもしてはどうですか?」と言っているのである。なんとものびのびとしている。そういえばわたしの小学校の特別支援学級のクラスは「のびのび」と言った。わたしも一時期「のびのび」にいたような、いなかったような…。

 

 しかし、荘子であっても「天」の存在を語る。すなわち、神的な次元である。人間の心理は文化を隔てても、そもそもその機構がまず変わらないものなので、同様の現象学的現象が生起しているものと思われ、そこに何を代入するかで文化も変わってくるものと思う。だから、古典を読まなければならず、近代の思想家の思想などというのはあまり当てにならない。人間の計画的計画は、まず、外れるし、失敗する。

 もっと、のんびりと構えてもうまくいくのは、たんなるフィクションではなく本当のことだと思ってみてはいかがでしょうか。

エッケホモ神経症

 通常、「エッケホモ(この人を見よ)」というのは、ポンテオピラトがイエスを指して言う言葉であるが、フリードリヒ・ニーチェはこれを自伝のタイトルにして発狂していった。これは端的にそうした消息を伝えている。ニーチェは反キリスト者として仏教などを援用していた。

 というのは、敏感になって調子を悪くしたこの頃、最も信頼している友人に相談したところ、「ゴミとか身なりに注意を向けること」を教えられた。確かに、その通りであるし、もっと言えば、なにか「対象」に注意を向けることや、多くの「憑依対象」を信頼することを覚えたほうがいい。多神教ではないが、一神教徒でも結婚して家族も親友もいるものである。それは、比喩的に、現象的には「憑依対象」と呼んでよいと思う。

 

 教授がわたしに比喩を示していたが、曰く、「エコーが声だけになって、ナルキッソスが湖で…云々…」という話である。「死者の誕生日を祝うな」という話があるが、それはそうと晩年の芥川が「復讐の神につけ狙われている」などと言って狂っていっていたはずだが、ギリシア神話の「復讐の神」はもちろんナルキッソスに復讐する神である。エッケホモでも復讐の神でもグレートマザーでもよいが、ここに知恵が必要である。

 だからこそ、一神教は祖霊崇拝ではなく、「生ける神」を崇拝するのではないかと思うが、どうだろうか。イエスキリストであっても、「友のために死ぬ」ことは教えても、死者を葬るのは死者にまかせておけという。どうも、東アジアのシャーマニズム西アジア一神教は相性が悪すぎて、折り合いが付きそうにない。東アジアシャーマニズムの自己愛がどうも見え隠れするが、わたしの気のせいだろうか?このことに知恵のある者は、考えてみてほしい。