柔和さの功罪とデカップリング

 ユダヤキリスト教の父なる神ヤハウェモラハラ気質であることは散々言ってきたのだが、そんな奴は至る所にいる。私の家庭が、典型的に父がモラハラ夫で母がメンヘラ女というような形態だったので、なにかそうした組み合わせには「神聖さ」を感じてしまわないでもない。かねてより私は母譲りの境界例的な女々しさが強く育ってしまったので、男性的な決断というものを嫌悪しているところがある。

 私は人生でしばしば、自ら好んでモラハラ気質の人間に接近して依存関係に陥るようなところがある。基本的に私は、コンビニで物を買うにしても商品を選んでレジで購入するまでのプロセスにどこか自信がないような性質なので、基本的な自律心が育っていないのだと思う。それもそのはずの生育歴なのであるが、自分のためにこそ自律心を育てていかなければならない。そこで「行為存在論」が持ち上がってきているのであるが、当の「行為存在論」の提唱者がまた私の知る限り内弁慶のモラハラ気質も大概な人物なのである。

 さて、しかし私はここで固着的な敗北主義を取ろうとは微塵も思っておらず、むしろ自ら自力で突破するしかないと考えているのである。だからこそ、柔和な人に優しくしたいと思うし、その自信はあるから、無理をしてモラハラ気質の自己愛的人物たちと関わることもないと思えてきたのである。少なくとも、明らかに基本的信頼の獲得から始まり、ここにきて自信や自律心もついてきている。だから、いよいよこの機会に、諸々のモラハラ人間からのデカップリングを遂行しなければならないと思う。何が正しいのかではなく、どのような関わり方が妥当かを考えた方がよいような場面で、否定から入るような人間の意見に一喜一憂する必要性はないのである。すなわちこの点で、たんなる自己愛と自信は大きく異なるのである。持つべきは自信であって、自己愛ではない。或いは自己愛といえども必要な自己への愛はあるが、その内実が問われる。

 しかし油断してはいけないし、よく気を付けなければならない。得てして別れて次に結ばれる相手は前の相手によく似ているものである。そうしたところからの誤学習で、なにか本当にますます自分は否定されるべき人間であると思いこむのが常であるが、実際にはそうした相手を、経験を賭けて選択してしまっていることが問題なのである。だからデカップリングが必要なのだ。ところで私は共依存全般を悪いことだとは思わないし、むしろ場合によっては好意的に見ているところもあるのだが、それは例えば優しさが互いを満たす場合などであって、一方が支配し一方が服従するようなそれではない。

 私は私の幸福を信じているところがある。諸々の支配者に屈してはならない。早い話が、そういう者たちは治りはしないので、「やめて」と言えるようになるということではなく、せいぜい離れていくことができるだけである。あとは彼らの問題である。