教会という知足

 なにか私自身が昨年の復活祭に、思い詰めに思い詰めて悩み抜いた末に洗礼を受けたので、なにか「信仰」ということにはひどい重圧を感じてしまい、かえって教会から遠ざかっていたのだが、今日、久しぶりに礼拝に行った。若い牧師も非常に思い詰めるタイプのようなので、それは話してみる前の見た目からだいたい察しがつくのだが、このタイプの信仰者は裁きを恐れるが故にこそ絶対的な愛をいつも信じていなければならないから、一種の不安型の愛、つまりは重い愛というものがよくわかるのである。

 しかし実際にその他の知っているかぎりの信徒を見渡してみると、或いは歴史を振り返っても、キリストに生きているかのようでありながら実際には裁きも父もあったものではなく、相当ヘラヘラしていることに気づかされるので、何年信仰生活を続けても世俗的ななんちゃってビリティは抜けないものなのだなと、非常な安心を覚える。私の周囲を見ても、ある種の不安型と重さがないかぎり信仰ということにそもそも関心を持たない様子である。神の愛はアガペーと言うが、アガペー以前に恋愛がオワコン化してきている。要するに友情も愛情ももはや人生苦しい人の趣味に近い。性的関心に地域差があるというように、もはや娯楽が増殖したこんにち、原初的な愉しみを追い求める人はよほどカルチベートされていないんじゃないかと思わないでもないが、どうも愛するということだの近代的自由の欺瞞だのといったことと大真面目に取り合っている私は、きっと残念ながら育ちがよろしくなかったがために刺激のない微妙さの中にある愛を全く感じ取れていないのではないか。問題は、感覚過敏で痛みや恐怖が強いくせに刺激を追い求めてしまうこの救いようのない精神構造である。

 思えば、母の置いていった猫と同じ部屋で暮らしていたのがそもそもまずかったのではないかとも思わないでもない。猫はよく私の膝の上に乗ってにゃあにゃあ鳴いて撫でろ撫でろと要求してきたが、私は本当に甘えられ、与えることにも、甘え、求めることにも、あまりにも弱すぎるのである。私の愛の経験はどうしても、子を育て上げ自立させる愛ではなく、「わたしは世の終わりまであなたがたを見捨てない」という情感での、永遠の安全基地としての、基本的信頼なのである。

 そうした経験から、私は「偶然に出会われた」という感覚を大切にしているのである。だから、あくまでも私は私を生きながら受動的態度を取るのであって、出会われなくても淡々と日々をこなし、出会われれば幸運だと思うのである。

 しかし不安型の人間にとって日頃の愛情飢餓は、事は深刻である。下手をするとノイローゼになってしまう。そこで信仰ということが出てくる。受動的態度であれ、現実の人生は待ったなしである。時間が待ってくれない。そして私は生きるのも下手なら死ぬことも下手なので、とりあえず生きてみるほかないと考え、生きている。そうしたことから、あくまでも基本のモードを「足るを知る」ということに据え、日々を淡々とこなし、ささやかな癒しがあれば、あとは私が決めることではないと考えている。そうした感性をもって、とりあえず「主の日に備えて」生きてみようと思う。