宙吊りの信仰

 インドのバクティのような絶対的帰依でなくとも、はたまた信仰であるかどうかさえ定かでないかしわ手でなくとも、宙吊りの信仰というものは成立すると思う。私はそうした道に進むことにずっと葛藤があったが、ついに踏ん切りがついた。というのは、現実の只中に引き付けて考えてみたところ、私は日頃からそうしていたということに自覚的になったからだ。

 通俗的モラハラと呼ばれるような性格類型があるが、私の教授もそうした人だし、また、私が惹かれる人というのは得てしてそうした自己愛性の強い否定的な人だ。一般にそうした人への依存からは逃げた方がいいと言われるが、問題は、そう思いながらも何度も足繁く通ってしまう自分がいるんだということである。多分、これがよくわかる人というのは私の文章を読んでくれる人の中にはいると思っている。

 そうしたことから、では一々その都度の人間にそのような父性を求めるのではなく、どのみち狂信的になれようとも思わないから、いっそ父なる神を信じてみようかと思った次第である。しかし私は堕落的な人間だから、信じたところで日頃の座っている時の姿勢が変わるわけでもないと思うし、人間的な弱さは変わりやしないと思う。そうして、聖書を読みながら神に対して愚痴を言いつつも信じるというこの宙吊りの信仰。これがなにか自分の肌に合っている気がする。私は、自分で自分の身を立てられるほどできた近代人ではないから。どうしてもそうなれそうにないから。

 

 太宰治に『父』という短編がある。父なる神の命令でアブラハムが独り子イサクを生贄に捧げるというシーンを引用して、太宰自身の日常を描いたものだが、なかなかに「だめ」を極めた男だということがわかる。

 まず、自分の妻が体調を悪くしているというときに配給があり、配給の列に並ぶのはたいぎだなどとのたまい、妻もそれを察してただ子供たちを見て家にいてくれればいいと言う。しかし来訪者がありある種の「遊び」に出かける太宰。しかし呆れたことにその「遊び」も、非常な浪費をしつつも地獄の思いで行っており、相手を楽しませるでもなくひやひやさせ、誰の喜びにもならないと言う。なかなかの大病だと思う。

 

 義。

 義とは?

 その解明は出来ないけれども、しかし、アブラハムは、ひとりごを殺さんとし、宗吾郎は子わかれの場を演じ、私は意地になって地獄にはまり込まなければならぬ、その義とは、義とは、ああやりきれない男性の、哀しい弱点に似ている。

 

 また見え透いた道化をやっていると思って読んだが、切り捨てることのできない話である。この義とは、簡単に説明すると、自分の信仰のために自分の子供を殺しかけている、すなわち、自分が救われようとするがために自分の本当に大切なものを失おうとしているがいっこうに救われもしない、ということであるが、まさに私の日々の人生がその通りのものなのである。だからこれは「やりきれない男性の哀しい弱点」なのだが、こうでもしないとまず今日一日を乗り切れる気がしないのである。或いはこの事例からわかることは、私は既に聖書をある程度読んだうえでのことだが、アブラハムが信仰の父と言われるのはその女々しさゆえなのだろうと思う。

 私が実家にいた頃、機嫌の悪い日の父はよく「もう飯食わせんぞ」と怒鳴っていた。そうしたとき、私はいつも母の遺していった猫に求められるがまま餌を与えていたものである。私の「贈与する徳」の体験はこうしたところにある。しかし問題は、その当の私たちの糧は父の給与と祖父の遺産だったということだ。私は現在27歳であるが、未だに月20万の仕送りを貰っている。これが「やりきれなさ」の正体なのだが、かといってどうすることもできない。今現在私には金銭的余裕があるので、早く部屋を掃除して猫を飼いたいと思っている。