或る一つの生によせて

 夜半に起きてしまったので、電気はつけないままにして、スマートフォン森田童子の「僕たちの失敗」を流して、先日死亡した桐島聡の人生に思いを馳せていた。

 私はここで彼の為したことの善悪は判断しない。しかし、続報が出るにつれて、私は桐島が、手配とは関係なく、一つの生き方を示してくれたように思えている。

 

 桐島の笑顔には誰もが馴染みがあると思うし、あの手配写真にはあの時代の青年像のイデアのようなところがある。見るからに音楽が好きそうな好青年のようであるが、情報が更新されるごとにその音楽好きが明らかになっているし、しっかりフォークギターを嗜んでいたようである。行きつけのバーや居酒屋の常連客や店員の話によると、生涯60年代の洋楽が好きだったようなので、趣味は地元の頃から変わらなかったのだろう。そうして情報を見ていくと、桐島に36年来の友人がいたということである。逃亡生活中に36年来の友人が作れるのだということで、なにか美化するわけではないが、意外となんとかなるんじゃないかという気がしてくるものである。高校時代の同級生の証言だと、当時は全く政治にも関心がなかったようである。しかし、大学時代に偶然再会したときには、当時すでに時代遅れになっていた「運動」にのめり込んでいた、と。

 桐島がこの数十年どう生きて来たのかを再構成すると、だいたい、酒と音楽と読書と交流を好み、自分が立つ分働いて、あとは気晴らしに飲んで踊って忘れていたということだろう。

 ここから想像できることとして、桐島はかえって指名手配という制約がついたことによって、半径数キロメートルの幸せのようなところに生きることができたのではないかと思う。むしろ我々の問題は、なにかもっと相応しいところがないかと反省してしまい、一向に定まらないことではないだろうか。案外、私も、このまま学業に打ち込めずだめになって、実家からの仕送りが止まっても、桐島のような生き方ができるのではないかと思うようになってきた。桐島は、他所の敷地を整備してあげていたようだし、この死の報道に際して正体が明らかになっても、「悲しい」と涙を流してくれる人がいたようである。若気の至り、というのは、しかしなにもただ痛々しいものではなくて、ほとんどの場合当人たちにはやむにやまれぬものなのだろうと察している。

 

 高次の環境に入れば幸せになれるというのは、恐らく幻想である。そんなことよりも、自分に手の届く環境にこだわりと愛着を持って、愛想よく生きるのが、案外人生をやり通す要点なのではないだろうかと思った。