この破滅からの卒業

もうパターン化された“エモ”気持ち悪すぎるんだよ、愛情飢餓、取ってつけたようなトラウマ、自堕落な生活、都市生活者の孤独、狂気、社会からの抑圧、自殺、もう全部飽きた 面白くない

 

 私はピノキオピーのすろぉもぉしょんは好む方であるが、特に「すろぉもぉしょん アイドルだって歳食って わいどしょう 賑わせて骨になって」という歌詞に安心感から涙が出てしまうものである。クレッチマーの『天才の心理学』では「細長型」、つまり痩せ型は分裂気質だというかなり乱暴な議論があるのだが、割と当たっているところもあると思う。私の教授が、「チンピラは一騒ぎ起してやがて消えていくんです」と言っていたが、「神の子」を自称した宗教家でも、文豪たちでもロックミュージシャンたちでもいいのだが、確かに彼らの言語性において研ぎ澄まされた「言葉」や生き方そのものは記録され生き残るのであるが、巨視的なスケールで見ると彼らもまた、なにか一騒ぎ起して消えていったような存在に同じである。「アイドル」にはそうした含意があると思っているので、「恥の多い生涯だって大丈夫」だと言ってくれていて、ああ、大丈夫なんだなと思えてくるのである。母は友であらねばならない、友は母であらねばならない。

 

 「自責/他責」というワードがマジックワードになっているが、これをそのまま受け取ってはいけない。これは見て取ったところ実態としては、「自責」が強く出る人は局面に応じて「他責」も強く出る、逆もまた然りである。だから、「自責/他責」という括りでの強さで見なければならない。かつて人文界隈では「スキゾ/パラノ」というものが流行ったが、私の教授もよく「神経症/分裂病」コードを対立的に話す。しかし実際にはこれもまた同じことであろう。私が様々な人間観察をしてきたところ、「神経症」的な人と「分裂病」的な人はともにその症状が強く出る時には両方の症状が出ているように思うし、その対人的不安定性や依存性を見てもよく似ている。だから、現代において「境界例」が妥当しないのではなく、むしろその基本態が「境界例」なのではないか。多分、私がこのことについて人よりよく知っていると思うのだが、そうした人間は不安型であるから、慢性的不安から身近な人々を、例えば子供を、例えば恋人を、例えば友人を、ダメにしてしまう傾向がある。故にモテてしまう事例が多い。

 そうした「夢」は青年の甘美な夢になる場合もあるのだが、早い話が行き着く先は「破滅型」のテンプレートをなぞっただけの人生破綻なので、あまりいいものではない。むろん、そこまでわかっていてそこまで行くのも美しいと言うのならもう止めやしないけれども。

 

 いかにより善き生を送るかが大事なのであって、そのためには転回が必要なのだが、人間の基本態は固着なので、どうしようもなく今の経験から動きたくないのが人間である。こだわり、動きすぎてはいけないが、こだわりすぎてもいけない。しかしこだわりも必要だ。結局古今東西言われてきた「中庸」が大事なのだろう。ラディカルには夢があるが、もっと知足に生き抜くことを考えなければいけない。

存在について

 なにかとかく哲学界隈では「存在」という、個別具体的な「存在者」ではないところの「存在」なるものにこだわる人が一定数見受けられるが、基本的にそうした人たちは「存在」に様々な情感を込めることで心的構造のなかで有効に活用しているようである。これは神も同じことである。しかし、それらは、間違ってはならないのは、決して心的現象としては「認識の対象」ではない。だから、「知」や「善」なるものとはあまり関係がない。信仰は刷り込みのようなものだから、かりに認識として神を否定しても、すなわち、「神はいない」という命題を主張しても、いわば神経系における核のように思いの詰まった存在感は残るものである。だからこそ母性的愛情飢餓は持続的に残存する。或いは、残存するのは贈与された愛のほうである。だから、「存在」も神も、私にとっては母性なのだ。そうであってもらわねばならぬのだ。

 「私は在りて在る者である」というモーセに対するヤハウェの宣言があるが、聖書全体を通して見ればやはりヤハウェは活動的な「はたらき」の神である。しかしそれと同時に、当然摂理的な永遠の今において、動きつつ停止していなければならない。活動的停止は、すなわちそのような事情により無限性においては矛盾なく成立する。

 ところで肝心なことは、不在による構造的空白をなにか現実の人間で永遠に満たそうとするのではなく、自分が人間味を、或いは換言すれば「アニマ(霊魂性)」を感じる相手と、しばらく付き合ってみればよいと思う。時が来れば自ずと経験が変わっており、異なる段階に入ることができるはずである。だから、私は永遠の熱情や永遠の甘えをよしとしないが、しかし多くの宗教が、或いは多くの愛が嘘の永遠性を強調するように、太母的な甘やかしの段階は治療プロセスとして必要だと思う。もしくはそれこそが、すなわち言うところの「病気治し」ではなかったか。だから私は、キリスト教にも禅宗のように還俗があっていいと思う。しかし同時に、その還俗はあくまでも非公式で遂行されなければならない。本来、「神のものは神に返せ」ということは、およそ普遍的な社会通念として見ても筋だから。しかしイエスも「不正に得た富で友達を作りなさい」と教えているものである。やはり私はこういうところを見つけるにつけ、この男は宗教的天才だったのだと感じる。

 

 「宙吊りの信仰」という言葉がある。それは私の言葉であるが、「宙吊り」という語彙は教授からの刷り込みである。あるとき「現実が整合的なはずがない」と言っていた教授は、確かにいつも首尾一貫しないことを言っている。しかし、同時に経験が首尾一貫しており、いつも同じことしか言っていないとも言える。宙吊りの信仰では、一方で「私の死」を経ても生き続ける生命があり、同時に他方で結局は、「人は死ねば死ぬ」のである。私は死んでも生きながらえるなんて勘弁してくれと思う方であるから、生きている間に死はなく、死んだとき私はいないのだから、死はなにものでもない、というものを信じるものであるが、同時に観念的には不死性の要請をそのまま受容しておこうと思う。現代で疲れた人、飢えた人は、このくらい気楽な信じ方でいいと思う。そして同時に言っておかなければならないのは、基本的に「本物」を世に残す創造者は、例えば作家であれ起業家であれ、飢えていなければならない。ハングリーであれとは、或いはこのことだと実感している。だから私がいくつか現代の小説を読んでもそうでもないと感じてしまう一方で、かつての文豪たちの私小説を読むと凄味を感じるというのは、もちろん経験が近いということもあるだろうが、実際に多くの人々が彼らを評価しているところから見るに、あの者たちが慢性的な飢餓状態にあったからこそいいものが書けた、ということはあると思っている。しかしこんにち書くのであれば、人を死なせる作品ではなく、人を幸せに生かす文章を書きたいものであるという信念が、私にはある。

相互理解の夢

 私はよく親しい友人たちに「不安型」「回避型」という愛着障害用語の拡大解釈を提唱しているのだが、基本的に不安型の人間には「膜」のようなものが薄い場合が多く、回避型には当然膜が張っている。そこで私は、自身不安型であることから、膜のない者同士の誠実かつ対等な関係ということに理想を見出している。しかしこれは極めて難しく、私は不可能という言葉を好まないが、敢えて言うとこれは不可能なことである。この要件を満たした関係、それは私への他者の同化でも他者への私の同化でもなく、また二人で同一化するための幻想を構築することでもなく、ということである。具体的にはどうしても張り合いになってしまう。うまくいき続けるためには神経基盤やこれまでのものの感じ方も含めてあらゆる事態に対して同じ経験が動かなければならない。共感、と言っても足りないのである。

 だからこそ私は、「月が綺麗ですね」という言葉の、その含蓄のある詩的意味ではなく、その圧倒的空虚さに希望を見るのである。「寒いね」とか、「空が青い」なんかも、そこに深い意味を見出してしまう必要は、この場合ない。しかし私のような「高さ」にフェティシズムを持っている人間は、どうしても美的なものや知的なものにおいてそれを求めてしまうのである。だから私は能力のある者に「心ある人」という形容をするのだが、もはや、世界解釈ではなくいかに世界を変革するのかという局面においては、私のこの夢こそ空虚なものであろうと思う。私はそうした政治性を好まない。そうして事態は独我的ということになるのだが、或いは歴史的には「芸術至上主義」とはこうした諦念からの帰結だったのかもしれない。

 きっと私のアプローチが間違っているのである。結局この相互理解というのは、「お前も当然そう思うだろう」というような、自明性に訴えかける論証のようなものにほかならない。理解、や、分かる、ということが狭隘なのである。

 相互理解は諦めるとして、理解力というものはある。しかしそれは単体で取り出せるものではない。それは、何をすればいいのかを理解する能力であり、つねに実行とセットである。事例としては、仕事で上司が部下にある仕事を依頼すれば、部下は何をすればいいのかわかっており、上司はどんなものが出来上がるのかだいたいわかる、というような、或いは、乳児の欲求表現から母親が何をすべきかわかっているようなものである。

 あまりにも誠実に伝達しようとする人は、議論を行うという徳に秀でていない。私はあまり口頭での議論に価値を見出さなくなった。次の局面に進まなければならない。

書けなくなった

 

 真偽は定かではないが、太宰治の遺書には「書けなくなった」とあったそうだ。実際にはその他諸々の私情的な死なのだろうが、「書けなくなった」はなかなかに迫真性のある言葉だ。今まさに私が「書けなく」なっている。できればコンスタントにnoteに良質な記事を更新し、さらに長期的なものも書いていきたいのだが、書けなくなっている。そういう時期もあるものだが、具体的に内面を語ると、普段はぼんやりとした思考のもとで半ば無意識的に記事になる素材の組み合わせが構成されていくのだが、最近はぼんやりとした思考のテーマが次々に移ろい、なかなか構成に向かわない。そして書けなくなっているのである。多分、才能で売っている小説家も、当然プロであれば入念な下書きはしようが、そもそものところでは緊密に論理的に構成して書いているはずはないので、なにか不調が起きると途端に書けなくなるのであろう。困った。

 私は基本的に、インターネット上で自分に要求する水準は低いが、いざ多くの他の方が書いた文章と比較すると、なかなかのものが書けているという自信がある。実際には、多くの他の方たちというのが、ターゲット戦略を意識して普段からモードをそこにフォーカスして、一般受けするものを書いているのであろうと思う。誰も見ないような垂れ流しの記事は論外だが。このような、半ばのインテリ意識と半ばの戦略意識でやっているものだから、私の立ち位置は中途半端にならざるを得ない。もっと言えば、本格的に専門的な研究をやって文献学的に稠密な論文のようなものを仕上げたいという意欲が全くと言っていいほどないのだ。だから基本的にチューニングしているのは、純文学ではあるが一般受けしている小説であったり、広く読まれている評論家の文章であったりするのだが、この立ち位置はご周知の通り精神衛生上あまりよろしいものではない。しかし私は私の徳はそのようなところにあると思っているので、書き続けていきたいし、なにか面白くて善き解釈を提示できたなという実感があるときは、素直に嬉しいのである。だから、書けなくなるということは同時に日常の雑念や生活そのものの質感が落ちているということの証左でもあるように思えてくるのである。こうして思い詰めてしまうから、なおさら、いわばどうにもならないことをどうにかしようとして(これが近代的自我の陥穽であるのだが)、ますます経験の循環は悪化するのである。

 さて、そうしたときにできることは決まっている。日常の行為に力を入れて、しっかり運動し、よく眠り、食べる時に食べ、そうして図書館や博物館に行ったり、本をパラ読みしたりして気持ちを切り替えるのである。そうするほか思いつかない。このような場合あまり人とのおしゃべりは有効ではない。

 とりあえず、こうしたところで吐きつつ息長くやっていかないと、うまくいったとしても本当に思い詰めてそれっきりということになりかねないから、日々をこなすところにしか突破口はないと考えておこう。