相互理解の夢

 私はよく親しい友人たちに「不安型」「回避型」という愛着障害用語の拡大解釈を提唱しているのだが、基本的に不安型の人間には「膜」のようなものが薄い場合が多く、回避型には当然膜が張っている。そこで私は、自身不安型であることから、膜のない者同士の誠実かつ対等な関係ということに理想を見出している。しかしこれは極めて難しく、私は不可能という言葉を好まないが、敢えて言うとこれは不可能なことである。この要件を満たした関係、それは私への他者の同化でも他者への私の同化でもなく、また二人で同一化するための幻想を構築することでもなく、ということである。具体的にはどうしても張り合いになってしまう。うまくいき続けるためには神経基盤やこれまでのものの感じ方も含めてあらゆる事態に対して同じ経験が動かなければならない。共感、と言っても足りないのである。

 だからこそ私は、「月が綺麗ですね」という言葉の、その含蓄のある詩的意味ではなく、その圧倒的空虚さに希望を見るのである。「寒いね」とか、「空が青い」なんかも、そこに深い意味を見出してしまう必要は、この場合ない。しかし私のような「高さ」にフェティシズムを持っている人間は、どうしても美的なものや知的なものにおいてそれを求めてしまうのである。だから私は能力のある者に「心ある人」という形容をするのだが、もはや、世界解釈ではなくいかに世界を変革するのかという局面においては、私のこの夢こそ空虚なものであろうと思う。私はそうした政治性を好まない。そうして事態は独我的ということになるのだが、或いは歴史的には「芸術至上主義」とはこうした諦念からの帰結だったのかもしれない。

 きっと私のアプローチが間違っているのである。結局この相互理解というのは、「お前も当然そう思うだろう」というような、自明性に訴えかける論証のようなものにほかならない。理解、や、分かる、ということが狭隘なのである。

 相互理解は諦めるとして、理解力というものはある。しかしそれは単体で取り出せるものではない。それは、何をすればいいのかを理解する能力であり、つねに実行とセットである。事例としては、仕事で上司が部下にある仕事を依頼すれば、部下は何をすればいいのかわかっており、上司はどんなものが出来上がるのかだいたいわかる、というような、或いは、乳児の欲求表現から母親が何をすべきかわかっているようなものである。

 あまりにも誠実に伝達しようとする人は、議論を行うという徳に秀でていない。私はあまり口頭での議論に価値を見出さなくなった。次の局面に進まなければならない。