存在について

 なにかとかく哲学界隈では「存在」という、個別具体的な「存在者」ではないところの「存在」なるものにこだわる人が一定数見受けられるが、基本的にそうした人たちは「存在」に様々な情感を込めることで心的構造のなかで有効に活用しているようである。これは神も同じことである。しかし、それらは、間違ってはならないのは、決して心的現象としては「認識の対象」ではない。だから、「知」や「善」なるものとはあまり関係がない。信仰は刷り込みのようなものだから、かりに認識として神を否定しても、すなわち、「神はいない」という命題を主張しても、いわば神経系における核のように思いの詰まった存在感は残るものである。だからこそ母性的愛情飢餓は持続的に残存する。或いは、残存するのは贈与された愛のほうである。だから、「存在」も神も、私にとっては母性なのだ。そうであってもらわねばならぬのだ。

 「私は在りて在る者である」というモーセに対するヤハウェの宣言があるが、聖書全体を通して見ればやはりヤハウェは活動的な「はたらき」の神である。しかしそれと同時に、当然摂理的な永遠の今において、動きつつ停止していなければならない。活動的停止は、すなわちそのような事情により無限性においては矛盾なく成立する。

 ところで肝心なことは、不在による構造的空白をなにか現実の人間で永遠に満たそうとするのではなく、自分が人間味を、或いは換言すれば「アニマ(霊魂性)」を感じる相手と、しばらく付き合ってみればよいと思う。時が来れば自ずと経験が変わっており、異なる段階に入ることができるはずである。だから、私は永遠の熱情や永遠の甘えをよしとしないが、しかし多くの宗教が、或いは多くの愛が嘘の永遠性を強調するように、太母的な甘やかしの段階は治療プロセスとして必要だと思う。もしくはそれこそが、すなわち言うところの「病気治し」ではなかったか。だから私は、キリスト教にも禅宗のように還俗があっていいと思う。しかし同時に、その還俗はあくまでも非公式で遂行されなければならない。本来、「神のものは神に返せ」ということは、およそ普遍的な社会通念として見ても筋だから。しかしイエスも「不正に得た富で友達を作りなさい」と教えているものである。やはり私はこういうところを見つけるにつけ、この男は宗教的天才だったのだと感じる。

 

 「宙吊りの信仰」という言葉がある。それは私の言葉であるが、「宙吊り」という語彙は教授からの刷り込みである。あるとき「現実が整合的なはずがない」と言っていた教授は、確かにいつも首尾一貫しないことを言っている。しかし、同時に経験が首尾一貫しており、いつも同じことしか言っていないとも言える。宙吊りの信仰では、一方で「私の死」を経ても生き続ける生命があり、同時に他方で結局は、「人は死ねば死ぬ」のである。私は死んでも生きながらえるなんて勘弁してくれと思う方であるから、生きている間に死はなく、死んだとき私はいないのだから、死はなにものでもない、というものを信じるものであるが、同時に観念的には不死性の要請をそのまま受容しておこうと思う。現代で疲れた人、飢えた人は、このくらい気楽な信じ方でいいと思う。そして同時に言っておかなければならないのは、基本的に「本物」を世に残す創造者は、例えば作家であれ起業家であれ、飢えていなければならない。ハングリーであれとは、或いはこのことだと実感している。だから私がいくつか現代の小説を読んでもそうでもないと感じてしまう一方で、かつての文豪たちの私小説を読むと凄味を感じるというのは、もちろん経験が近いということもあるだろうが、実際に多くの人々が彼らを評価しているところから見るに、あの者たちが慢性的な飢餓状態にあったからこそいいものが書けた、ということはあると思っている。しかしこんにち書くのであれば、人を死なせる作品ではなく、人を幸せに生かす文章を書きたいものであるという信念が、私にはある。