わたしはこれを書いた当時の韓国の老人に呼び覚まされた。わたしは日本人でしかありえない。また、やっぱり東アジアの人間である。いくら西洋文化を摂取し、西洋の信仰に目覚め、スケールの大きさに憧れるところがあっても、それはわたしの具合を悪くするところがある。読んでいると、子供の頃のBSのロボットアニメや母親とのプラネタリウムではなく、どうしても根底に刻み込まれている祖母との思い出が蘇る。しかも、天文の世界も日本化するとただちに『銀河鉄道の夜』のような世界に様相を変えてくる。すなわち、日本人のどうしようもなく細やかなところ。この本には「美」についても記述されており示唆に富むが、「うつくし」というのも語源を辿ると「くはし」になり、今道友信の述べるところ「存在の充実」が基底にあるのだそうだ。そうするとただちにわたしに去来するのが、わたしたちの父母たちの世代の文化のアメリカニズムの「無理」である。このことについては近々『概論』のほうで、親たちの文化とわたしたちの時代の対比というかたちで明らかにしたいと思うが、少なくとも東アジアの情緒は、例えば廊下の隅の一角で「あっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ」と歌うことで、そこに蛍の飛び交う水辺を想像できるところがある。枯山水もわたしには恐ろしく親しいし、わたしはたとえどういう障害を負っていようと、ごく幼いころから、祖母との散歩の中で細やかな想像力の世界に遊ぶことが多かった。わたしが自分で「情緒」というときの美意識は、ほとんど祖母の教養の高さや実家の茶道をはじめとしたスノビズム傾向に負っているところが大きい。残念ながら、わたしはアブラハムの見上げた星々よりも一茶が障子の穴から見た天の川のほうがわかるところがある。このあたりの、わたしをもってして結局粗野になりきれないところは、多分わたしが本家の長男家系で祖父母と同居してとくに祖母に育てられたところに依っており、改めて「霊的なアブラハムの子孫」としてではなく「まんまんちゃんにちーん」をしていた小さな子供としての自分に向き合わなければならなくなった。恐らく、そうした先祖やミニチュア的崇拝にしても、あらゆる日本の文化にしても、「凝り」ということは言えると思うが、それは「言霊」の昔から「込める」ということと関わっているように思うが、著者からは「島国の文化論で行くな」という警告が発せられているので、多分その事態は、ネグロイドやコーカソイドに対して有意に高い「不安」が関係していると見立てている。確かに、イングランド人は同じ島国でも極端な拡大と議論の志向にある。すなわち、わたしたちの日本思想はこんにち、西洋文化の一方で、どうしても組み込まれている日本人と日本文化の美の本質について考えなければならなくなった。つまり「縮み志向」というよりも「縮こまり」というほうが的を射ているはずである。しかしまさに、こうしたことを論じられることにこそ、イギリスや大陸流の社会学にはなしえない「細やかさ」の利点があるはずであって、そこからでしか、文化的にも遺伝的にも大きく異なる世界のなかでの立場の表明は生まれない。ユング心理学やエラノス会議のような大掴みの「元型論」からは決して出てこなかった、新機軸である。このことは追って詳しく論じる。
わたしはこの本をかなりすらすらと読めて、なおかつ面白いのである。ここに、わたしのいわば「どうしようもなさ」があり、ドイツ的概念でものを語ることの圧倒的な無理がみえてきた。わたしはこの本を、わたしをして才気を認める、昨年韓国に留学したある友人から紹介されたのだが、非常に感謝している。この本をとおして、これまで考えてきた「日本における公共圏」についても考えが深められそうだが、先に述べた東アジア人の本質的な傾向性によって、まず直輸入は無理であるから、相当な戦略を練らなければ厳しいところである。特に知識量の不足している、ただ不満だけは満ち足りている人たちは、「広場」の問題を語るが、事の問題はそう単純なところには決してない。すなわち、わたしはここにきて、哲学や社会学などの人文社会系諸学の「直輸入」にも大いなる課題意識が芽生えてきた。或いはそれは、大学の改革にとどまらず、学制が文化や体質に対して無理があるという可能性まである。
示唆に富みすぎていて、実存などという底の浅い問題以上に深い根底にわだかまる領域に関わっているが、それゆえにこれまで考察してきた問題系よりも考えなければならないことは多い。ぜひ、わたしの書いていることに引っかかりを覚えた方は、この本を手に取ることをおすすめする。