たんなる人間ごときにおける信仰と、精神病理学的方法で啓蒙を経た世界経験

 新しいところに来た。エックハルトによって経験の狭隘化から抜け出たが、そういえばその前段階として、「人類の教師たち」を精神病理学的に観察していた。そうしたところから、友だちとしての彼らがおり、抑圧が取り払われた感じがある。すなわち、経糸とは、蜘蛛の糸のことだったのである。あれはスートラであり、経典である。

 しかし、ここに油断してはいけない。「ブッダ悟りし後も悪魔付き纏えり」…ここに知恵が必要である。「人間ごとき針の先にて動き回るが如し」…大いなる者を信じていたい。すなわちむしろ、先の取っ払い的な「超出」がかえって、真に「大いなる方」を信じさせる動機になるのである。

 こうした「経験」と「体験」の接続がなければ、実は、インターネットでまた行われているような教養論争に意味はない。このことを悟らなければならない。

 精神分析と文化論を通過した精神病理学的方法における啓蒙には、どうも人間をたんに外面的にだけではなくその内面に至るまで脱神話化するところがある。

 大いなる者の下に集いし我らの虚無の実在の友ら、衆人に平安を与えたまわん。

 しかし永遠の安住ではない、「やっと辿り着いた」と思ってはならない。放っておいてその道を進めば、比喩的に言えば遠近法がそのまま実際化しているように、道は進めば進むほど狭くなっている。そのときに、あなたは、あなたの固有の仕事に、すなわち「ローカリズムへのこだわり」を固持し、横糸である朋友と時代の声を聴きながら、しかも位相を超出しなければならない。いかに「関係性の絶対」はあれど、位相の超出がなければかえってあなたの不健康が周囲の悩みとなる。固着するな、進むこと、そうすることがかえってローカリズムを守る。すなわち、経糸と横糸がなければ解体するのみ。